北条早雲の出自は、室町幕府の官僚一族だった。

戦国大名となった後北条氏の祖、北条早雲。その出自は軍記物などでは「伊勢の素浪人」とされ長らく謎とされてきた。が、1950年代以降、1980年代にいたる専門家の考証で、桓武平氏の流れを汲み、室町幕府政所執事を務めた伊勢氏出身という意見が定説になった。豊臣秀吉斎藤道三などと並ぶ乱世の梟雄、下克上と立身出世の象徴、大器晩成の典型との見方は支持を失いつつある。


詳しく分かっているのは、もと備中荏原荘(現・岡山県井原市)の半分を領する領主だった伊勢氏の支流の出ということ。個人名も特定されており、伊勢盛時という。その父・盛定は、同族の伊勢貞親とともに8代将軍足利義政の申次衆をつとめており、盛時は父・盛定と京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘との間に生まれたとされる。申次衆は伊勢・上野・大舘・畠山の4氏が占め、管領家などの相伴衆・御供衆などにつぐ家格とされた。そのため東国の戦国大名として最初期の例、という評価は変わらないにしても、下克上の典型例との見方は難しくなっている。


具体的に明らかになったその行動を見てみよう。まず、1467年(応仁元)に応仁の乱が起こると、駿河国の守護・今川義忠が東軍に加わり上洛。盛時の父・盛定が申次をつとめた関係で、その娘が正室として義忠に嫁いでいる。そのため、義忠の子・今川氏親は盛時の甥ということになる。盛時の確かな説としては、9代将軍義尚に申次衆・奉公衆(将軍直属の軍事力)として仕えたとされる。


1476年(文明8)、今川義忠が遠江で戦死すると今川家の家督相続争いが起こり、盛時は幕命を受けて駿河にたびたび下向。これを縁に、伊豆国との国境に近い興国寺城(現・沼津市)を得た。1490年代前半には、堀越公方の子・足利茶々丸(11代将軍足利義澄の兄)を内紛に乗じて攻め滅ぼし、1497年(明応7)までに伊豆を平定した。


下克上と戦国時代の幕開けを象徴するとされたこの一件も、現在では足利幕府内部の権力闘争と連動したもの、との分析がなされている。すなわち、10代将軍義材を追放した11代義澄(明応の政変)が、母と兄の仇敵の異母兄・茶々丸討伐を幕府官僚一族の盛時に命じた、との構図である。盛時は、いまだ氏親の部将でもあったが、伊豆・韮山城を居城とし、関東管領山内上杉氏と扇谷上杉氏の争いに乗じて小田原城も奪取。


伊豆・西相模を領し、山内・扇谷・越後の各上杉氏と対立することになった盛時(宗瑞・早雲)は、相模・武蔵進出をすすめ三浦氏を滅ぼした。また、分国法「早雲寺殿廿一箇条」制定や検地の実施など初期戦国大名による領国経営(大名領国制)の典型例とされる。


なお、後北条氏が北条姓を称したのは早雲の嫡男・氏綱のときで、いわゆる「北条早雲」盛時は、存命中に「北条早雲」を名乗っていない。