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老中と大老の区別、わかりますか?

老中と大老の区別を見てみよう。老中は、3代将軍・家光の寛永ごろの設置で、六人衆(のち若年寄)の設置などを経て定着。初期幕閣では「年寄衆」「宿老」などとも呼ばれた。 定員は4〜5人。月番制で毎月1人が担当となり、江戸城本丸御殿の「御用部屋」を詰…

教科書は「仁徳天皇陵」ではなく「大仙陵古墳」。

中国の秦の始皇帝陵やエジプトのピラミッドなどと並んで「世界最大級の墳墓・遺跡」とされる「大仙陵古墳」は、一般には今なお「仁徳天皇陵」(仁徳御陵)として知られる。 全長486mで、ちなみに第2位は大阪府羽曳野市の誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)で全長42…

戦国時代の始まりは、応仁の乱ではない?

1493年(明応2)に起こった足利将軍廃立事件を「明応の政変」と呼ぶ。 8代義政の甥・足利義材(のち義稙)は、「応仁の乱」で西軍の盟主に擁立された義政の弟・義視の嫡子だが、ともに美濃に逃れていた。いっぽう、義政の子の9代将軍義尚は、近江の六角討伐の…

北条早雲の出自は、室町幕府の官僚一族だった。

戦国大名となった後北条氏の祖、北条早雲。その出自は軍記物などでは「伊勢の素浪人」とされ長らく謎とされてきた。が、1950年代以降、1980年代にいたる専門家の考証で、桓武平氏の流れを汲み、室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏出身という意見が定説になっ…

「仏教公伝」の年代確定は難しい。

「仏教公伝」がいつだったか、については、長く2つの年号が論争となってきた。『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』にもとづく538年(戊午)説と、『日本書紀』に従う552年(壬申)説である。どちらの説も、根拠となる史料の性格づけも含めて…

「時代小説」と「歴史小説」の「歴史」。その2.

簡潔にまとめた「時代小説の歴史」については、下記参照。 対する「歴史小説」は、厳密な史料批判と史実、最新の研究成果にもとづき、紀伝・伝記などの形式で発表されることが多い。日本の近現代文学においては島崎藤村『夜明け前』を嚆矢とする。 明治・大…

「時代小説」と「歴史小説」の「歴史」。その1.

過去の時代・人物・出来事などを題材として書かれる点で「時代小説」と「歴史小説」は、似ている。境界もほとんど重なっていると言っていい。 だが、主に江戸時代を舞台として過去の時代背景や歴史的素材をつかって物語を展開する「時代小説」とは違って、「…

鎌倉幕府は、いつから始まったのか。

教科書で覚えた「イイクニ(1192年)つくろう鎌倉幕府」の語呂合わせがもう通用しない、というエピソードが、次第に巷間に流布している。では、鎌倉幕府はいつ始まったのか。 そもそも、武家政権はいくつかの段階を経て成立した、という見方が一般的になってい…

明治政府の修史事業(国史編纂)の挫折。

1869年(明治2)、明治新政府は「修史の詔」を発して平安時代の『六国史』を継ぐ正史編纂事業を開始した。修史局が『明治史要』第1冊を編んだのち、『大日本史』を準勅撰史書としながら、太政官修史館で「漢文での正史編纂」を目指したが、川田剛・依田学海…

「源平合戦」ではなく「治承・寿永の乱」。

1180〜85年の6年にわたる内乱は、一般に「源平合戦」「源平の戦い」などとして有名だが、「治承・寿永の乱」という元号で区切るニュートラルな呼称がふさわしい、というのが最近の流れ。 理由としては、まず、平氏政権から鎌倉幕府の樹立にいたる過程をみれ…

武家社会成立の基本文献『吾妻鏡』研究史

『吾妻鏡』は鎌倉幕府の6代の将軍記で、初代将軍・頼朝から6代・宗尊親王まで、具体的には1180〜1266年、87年間の事績を編年体で記している。 治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)から、平氏滅亡、鎌倉幕府成立、承久の乱、北条泰時の執権政治、得宗専制にい…

『神皇正統記』から「皇国史観」へ。

南北朝時代、幼い後村上天皇に対して吉野朝廷(南朝)の正当性を教え伝えるために、北畠親房が著した歴史書。後醍醐天皇の崩御直後の1339年(延元4・暦応2)の秋ごろ、常陸国小田城(つくば市)で執筆したとされる。 北畠親房は、後醍醐天皇の側近として建武の新政…

「賄賂政治」の田沼意次は、有能な改革・開明派。

8代吉宗の代に取り立てられた小身旗本出身の田沼意次は、9代将軍・家重の小姓・側近となり、その子・10代家治の信任のもと、側用人に出世。1772年(安永元)、ついに600石の旗本から5万7,000石の大名・老中にまで昇進した。 「田沼時代」と称されるのは、意…

日本史の「歴史叙述・歴史意識」の歴史。

日本最初の正史とされる『日本書紀』や『古事記』以前にも、『帝紀』『天皇記』などの歴史叙述の存在が確認されている。その後、いわゆる「六国史」、つまり『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』の整備が進み、天皇…

日本史(国史)の源流としての「水戸学」。

御三家の水戸藩を中心に、幕末の「尊王攘夷」運動の理論的支柱となった総合的学派が水戸学。江戸時代初期に林羅山によって武家社会の理念として再興され、江戸幕府の正学とされた朱子学(宋学、程朱学)の影響下にあり、本来は、天皇の伝統的権威を背景にしな…

明治維新期における日本史上の「改革」観。

明治時代に始まる国家主義的歴史観が重要視したのは、大政奉還・王政復古の正当化であり、その「準拠枠」として機能したのが、「大化の改新」であり「建武の中興」だった。とくに、明治40年代に入って「南北朝正閏(じゅん)論争」が展開され、後醍醐天皇・南…

「聖徳太子」は、どこまでフィクションか。

後世に広まった尊称「聖徳太子」にまつわるイメージが流布してきたが、蘇我氏と密接な関係をもった有力皇子「厩戸王」の存在は、史実として認められる。 用明天皇の子で、天皇崩御にさいして起きた崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋の争いには、蘇我氏側に…

「大化の改新」は後世の創作?

「大化の改新」による諸改革は、「日本書紀」編纂時のアレンジなり創作による記述に大きく影響されている、という見方が有力。 史実としては、645年に、中大兄皇子(天智天皇)や中臣(藤原)鎌足らが蘇我入鹿を暗殺し、蘇我氏宗家を滅ぼした「乙巳(いっし)の変…