「仏教公伝」の年代確定は難しい。

「仏教公伝」がいつだったか、については、長く2つの年号が論争となってきた。『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』にもとづく538年(戊午)説と、『日本書紀』に従う552年(壬申)説である。どちらの説も、根拠となる史料の性格づけも含めて、定説を見るに至っていない。


いずれにせよ、6世紀半ばの欽明天皇期、百済から倭(古代日本)への仏教公伝は疑いないが、上の2つの年号ではない可能性も近年、提唱されている。


そのひとつは、「聖王26年」(548年)を百済側がみた公伝の年とする説である。仏教を積極的に日本に伝えた百済の聖王(聖明王)の523年即位が有力となるにつれて生まれたが、「聖王26年」公伝とする根拠が薄く、百済側と倭側が一致するとは必ずしも言えない可能性も残る。


そのため、「仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を百済の使者が伝えた」(日本書紀)のは、後世の象徴的な表現に過ぎず、公伝にせよ私伝にせよ、この時期に仏教伝来が断続的に何度も繰り返されたとみて、「公伝」の年代確定を重視しない研究者も多い。


そもそも、氏族ごとに集団でやってきた朝鮮半島出身の渡来人(帰化人)による仏教の私的崇拝は、「公伝」以前に始まっていたことは確実で、仏像や経典ももたらされていた。522年来朝の司馬達等(止利仏師の祖父)がその例である。「公伝」にせよそうでないにせよ、仏教の伝来が6世紀半ばまでにあった、ということ以上に意味はないのかもしれない。


なお、林屋辰三郎らの「二朝並立説」のように、遠縁の継体天皇によるイレギュラーな皇統継承後、その3人の子である安閑・宣化天皇と、異母弟の欽明天皇とのあいだで、大和政権内部の王権移譲が確定していなかったとの見方もある。そのため、諸書の「公伝」年代の記述にもブレが見られる、というのである。