「聖徳太子」は、どこまでフィクションか。

後世に広まった尊称「聖徳太子」にまつわるイメージが流布してきたが、蘇我氏と密接な関係をもった有力皇子「厩戸王」の存在は、史実として認められる。


用明天皇の子で、天皇崩御にさいして起きた崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋の争いには、蘇我氏側に立って参戦。四天王寺法隆寺などを造営したが、いずれも創建時期は確定していない。


聖徳太子の治世は、内外に向けて倭王権を強化しようとした「冠位十二階」「十七条憲法」や、遣隋使に託した国書などが有名だが、「憲法」は日本書紀の創作説が強く、準備を主導した新羅征討の経緯と意図についても諸説ある。


近年提唱された非実在説も論争を呼んでいるが、その主唱者のひとり、大山誠一によれば、冠位十二階と遣隋使、斑鳩宮と斑鳩寺の遺構の存在以外は「太子伝説」の根拠がなくなる、という。


ただ、平安時代以降、「聖徳太子」という表記が一般化し、次第に太子信仰が広まったことは事実で、単純な虚構説への反論も根強い。皇太子に準じる有力者として蘇我氏との共同統治にあたったのは確実、とみる研究者は多い。

【今後の参考文献】
吉村武彦『聖徳太子岩波新書
大山誠一『「聖徳太子」の誕生』吉川弘文館(歴史文化ライブラリー)
佐藤正英『聖徳太子の仏法』講談社現代新書


ほか、梅原猛黒岩重吾山岸涼子日出処の天子』など。