「源平合戦」ではなく「治承・寿永の乱」。

1180〜85年の6年にわたる内乱は、一般に「源平合戦」「源平の戦い」などとして有名だが、「治承・寿永の乱」という元号で区切るニュートラルな呼称がふさわしい、というのが最近の流れ。


理由としては、まず、平氏政権から鎌倉幕府の樹立にいたる過程をみれば、清盛も頼朝も「院政の克服」を政治的課題としていたと評価すべきとされる。


また、平氏を打ち破った勢力としては、以仁王の宣旨に呼応した源頼朝木曾義仲の印象が強いが、平氏がすべて一致団結した勢力で、それに対抗する勢力がすべて源氏だったわけではない。頼朝を支持した関東武士の多くは平氏系で、実際には九州、熊野、近江など各地で平家支配への抵抗が強まっていた。単純な「源氏対平家」ではなかったとの分析が有力になりつつある。


富士川の戦い(1180年)に勝利した頼朝がすぐに上洛せず、関東政権の充実に力を注いだのも、武士による領地所有の安定化と権利確立を求める関東武士団の求めが強かったため。


ちなみに関東以外では、土佐、河内、美濃、近江、熊野、伊予、肥後、若狭、越前、加賀などで挙兵が相次ぎ、南都勢力の抵抗に手を焼いた平重衡は、東大寺興福寺を襲った(南都焼討)。


義仲にかわって頼朝上洛を願う後白河法皇に「寿永二年十月宣旨」(寿永2年[1183])を出させることに成功した頼朝は、東海道東山道の荘園・国衙領を元の通り領家に従わせる権限(沙汰権)を得て、東国支配を公に認められた。この宣旨を「幕府成立」と見るか、「朝廷による東国政権併合」と見るかで議論は分かれている。


なお、大江広元による頼朝への「守護・地頭」設置の献策(文治元年[1185])は、石母田正の論文「鎌倉幕府一国地頭職の成立」以来、概念の再検討が進み、現在では、守護制の前段階としての「国地頭制」「総追捕使」という理解が広まっている。とすれば、建久元年[1190]に頼朝が初めて上京して獲得した「諸国守護」を奉行する権限が「守護」職の始まりとなる。

上杉和彦『源平の争乱』(『戦争の日本史6』)吉川弘文館
川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』講談社選書メチエ
上横手雅敬『源平争乱と平家物語角川選書
保立道久『義経の登場 王権論の視座から』NHKブックス