老中と大老の区別、わかりますか?

老中と大老の区別を見てみよう。老中は、3代将軍・家光の寛永ごろの設置で、六人衆(のち若年寄)の設置などを経て定着。初期幕閣では「年寄衆」「宿老」などとも呼ばれた。


定員は4〜5人。月番制で毎月1人が担当となり、江戸城本丸御殿の「御用部屋」を詰め所とし、重大な事柄は合議した。ふつう5万石以上の譜代大名から選ばれたが、例外もあった。側用人京都所司代大坂城代など将軍直属の役職から任命されるケースが多かった。


幕府に置かれた役職のうち大目付町奉行遠国奉行駿府城代などを指揮監督。朝廷・公家・大名・寺社など幕政の主要部分を統括した。なお、1867年(慶応3)、幕末の幕政改革で月番制の老中が廃止されると、国内事務・会計・外国事務・陸軍・海軍の総裁5人がそれぞれ専任で置かれる体制となった。


また、1680年(延宝8)に財政専任の「勝手掛老中」を置いたほか、大御所や将軍家嗣子を補佐する「西の丸老中」が置かれた時期もある。家格の高い者や先任者が「老中首座」と呼ばれ筆頭とされた。


いっぽう大老は、将軍の補佐役として、臨時に老中の上に置かれた最高職。井伊・酒井(雅楽頭流)・土井・堀田の四家に限定され、譜代10万石以上の大名が任命されたときは「大老格」と区別された。徳川四天王のうち酒井忠次榊原康政本多忠勝の家系は大老にはなれなかった。

山本博文『お殿様たちの出世 江戸幕府老中への道』新潮選書

教科書は「仁徳天皇陵」ではなく「大仙陵古墳」。

中国の秦の始皇帝陵やエジプトのピラミッドなどと並んで「世界最大級の墳墓・遺跡」とされる「大仙陵古墳」は、一般には今なお「仁徳天皇陵」(仁徳御陵)として知られる。


全長486mで、ちなみに第2位は大阪府羽曳野市の誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)で全長420m。採集された円筒埴輪や須恵器の特徴から5世紀前半から半ばに築造されたとの説が有力である。築造時期が5世紀中頃〜後半まで下れば仁徳天皇の治世に近づくが、その見方は困難とされる。


宮内庁管理のため陵域内への自由な立ち入りや学術調査は許されておらず、考古学的には、仁徳天皇陵とする根拠はないとの見方が主流。実態は宮内庁書陵部治定による「伝」仁徳天皇陵でしかない。百舌鳥古墳群に属し「大仙(大山)古墳」ともいわれる。


記紀」「延喜式」などの記述によれば、百舌鳥の地には仁徳天皇反正天皇履中天皇の3陵が築造されたとされる。宮内庁の公式見解では、上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、田出井山古墳(反正天皇陵)がそれに当てられている。


2008年、この「仁徳天皇陵」を含む百舌鳥古墳群古市古墳群が、ユネスコ世界遺産の国内暫定リストに追加された。

戦国時代の始まりは、応仁の乱ではない?

1493年(明応2)に起こった足利将軍廃立事件を「明応の政変」と呼ぶ。


8代義政の甥・足利義材(のち義稙)は、「応仁の乱」で西軍の盟主に擁立された義政の弟・義視の嫡子だが、ともに美濃に逃れていた。いっぽう、義政の子の9代将軍義尚は、近江の六角討伐のさなか、1489年(延徳元)に病死した。そのため、義視・義材は10代将軍の座を目指して上洛するが、義政や管領細川政元などは、堀越公方足利政知の子・清晃(足利義澄)を推す。


ところが、義政の妻で義尚の母・日野富子が甥・義材を推し、1490年(延徳2)に義政も死去したため、義材が10代将軍に就任。前将軍・義尚の政策を踏襲し、将軍権力の強化を図った。


しかし、1493年(明応2)、守護大名・畠山氏の応仁の乱以来の家督問題が再燃したのを機に、政元や富子・赤松政則らが清晃を還俗させて11代将軍・義澄として擁立。京都に幽閉された義材は越中に下向した。義材の落ち延びた先は、越中・越後・周防・阿波と各地に及び、義材→義尹→義稙と名を変えて将軍職に一時復帰を果たすなどした。


これにより将軍家が二手に分かれた争いが長くつづき、奉公衆など将軍家の軍事的基盤は崩壊。以後、幕政は管領細川氏の権力に支えられ、将軍は各地の有力大名に身を寄せて頼るしかない存在となった。その細川氏も、1507年の政元死後は二手に分裂。この政変は、単に中央のクーデター事件ではなく、東国を中心とした全国各地に戦乱と下克上、戦国大名化の動きが広がるきっかけともなった。


従来、1467年(応仁元)〜1477年(文明9)の「応仁の乱」が戦国時代の始期とされてきたが、乱後も室町幕府の影響力は衰退しつつも一定ていど維持されており、「明応の政変」を戦国時代の始まりとすべき、との説が有力である。

北条早雲の出自は、室町幕府の官僚一族だった。

戦国大名となった後北条氏の祖、北条早雲。その出自は軍記物などでは「伊勢の素浪人」とされ長らく謎とされてきた。が、1950年代以降、1980年代にいたる専門家の考証で、桓武平氏の流れを汲み、室町幕府政所執事を務めた伊勢氏出身という意見が定説になった。豊臣秀吉斎藤道三などと並ぶ乱世の梟雄、下克上と立身出世の象徴、大器晩成の典型との見方は支持を失いつつある。


詳しく分かっているのは、もと備中荏原荘(現・岡山県井原市)の半分を領する領主だった伊勢氏の支流の出ということ。個人名も特定されており、伊勢盛時という。その父・盛定は、同族の伊勢貞親とともに8代将軍足利義政の申次衆をつとめており、盛時は父・盛定と京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘との間に生まれたとされる。申次衆は伊勢・上野・大舘・畠山の4氏が占め、管領家などの相伴衆・御供衆などにつぐ家格とされた。そのため東国の戦国大名として最初期の例、という評価は変わらないにしても、下克上の典型例との見方は難しくなっている。


具体的に明らかになったその行動を見てみよう。まず、1467年(応仁元)に応仁の乱が起こると、駿河国の守護・今川義忠が東軍に加わり上洛。盛時の父・盛定が申次をつとめた関係で、その娘が正室として義忠に嫁いでいる。そのため、義忠の子・今川氏親は盛時の甥ということになる。盛時の確かな説としては、9代将軍義尚に申次衆・奉公衆(将軍直属の軍事力)として仕えたとされる。


1476年(文明8)、今川義忠が遠江で戦死すると今川家の家督相続争いが起こり、盛時は幕命を受けて駿河にたびたび下向。これを縁に、伊豆国との国境に近い興国寺城(現・沼津市)を得た。1490年代前半には、堀越公方の子・足利茶々丸(11代将軍足利義澄の兄)を内紛に乗じて攻め滅ぼし、1497年(明応7)までに伊豆を平定した。


下克上と戦国時代の幕開けを象徴するとされたこの一件も、現在では足利幕府内部の権力闘争と連動したもの、との分析がなされている。すなわち、10代将軍義材を追放した11代義澄(明応の政変)が、母と兄の仇敵の異母兄・茶々丸討伐を幕府官僚一族の盛時に命じた、との構図である。盛時は、いまだ氏親の部将でもあったが、伊豆・韮山城を居城とし、関東管領山内上杉氏と扇谷上杉氏の争いに乗じて小田原城も奪取。


伊豆・西相模を領し、山内・扇谷・越後の各上杉氏と対立することになった盛時(宗瑞・早雲)は、相模・武蔵進出をすすめ三浦氏を滅ぼした。また、分国法「早雲寺殿廿一箇条」制定や検地の実施など初期戦国大名による領国経営(大名領国制)の典型例とされる。


なお、後北条氏が北条姓を称したのは早雲の嫡男・氏綱のときで、いわゆる「北条早雲」盛時は、存命中に「北条早雲」を名乗っていない。

「仏教公伝」の年代確定は難しい。

「仏教公伝」がいつだったか、については、長く2つの年号が論争となってきた。『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』にもとづく538年(戊午)説と、『日本書紀』に従う552年(壬申)説である。どちらの説も、根拠となる史料の性格づけも含めて、定説を見るに至っていない。


いずれにせよ、6世紀半ばの欽明天皇期、百済から倭(古代日本)への仏教公伝は疑いないが、上の2つの年号ではない可能性も近年、提唱されている。


そのひとつは、「聖王26年」(548年)を百済側がみた公伝の年とする説である。仏教を積極的に日本に伝えた百済の聖王(聖明王)の523年即位が有力となるにつれて生まれたが、「聖王26年」公伝とする根拠が薄く、百済側と倭側が一致するとは必ずしも言えない可能性も残る。


そのため、「仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を百済の使者が伝えた」(日本書紀)のは、後世の象徴的な表現に過ぎず、公伝にせよ私伝にせよ、この時期に仏教伝来が断続的に何度も繰り返されたとみて、「公伝」の年代確定を重視しない研究者も多い。


そもそも、氏族ごとに集団でやってきた朝鮮半島出身の渡来人(帰化人)による仏教の私的崇拝は、「公伝」以前に始まっていたことは確実で、仏像や経典ももたらされていた。522年来朝の司馬達等(止利仏師の祖父)がその例である。「公伝」にせよそうでないにせよ、仏教の伝来が6世紀半ばまでにあった、ということ以上に意味はないのかもしれない。


なお、林屋辰三郎らの「二朝並立説」のように、遠縁の継体天皇によるイレギュラーな皇統継承後、その3人の子である安閑・宣化天皇と、異母弟の欽明天皇とのあいだで、大和政権内部の王権移譲が確定していなかったとの見方もある。そのため、諸書の「公伝」年代の記述にもブレが見られる、というのである。

「時代小説」と「歴史小説」の「歴史」。その2.

簡潔にまとめた「時代小説の歴史」については、下記参照。


対する「歴史小説」は、厳密な史料批判と史実、最新の研究成果にもとづき、紀伝・伝記などの形式で発表されることが多い。日本の近現代文学においては島崎藤村『夜明け前』を嚆矢とする。


明治・大正期には、小倉時代以降、歴史観と近代観を深化させた森鴎外も『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』『山椒大夫』『高瀬舟』『渋江抽斎』などを結実させた。説話文学の古典に題材をとった芥川龍之介の初期作品も「純文学的歴史小説」といえるかもしれない。


歴史小説は、つねにいわゆる「史伝もの」と、講談風の荒唐無稽な歴史物語の狭間にあって、通俗的な「時代劇」ではなく、いわば「歴史劇」なり「歴史観そのもの」を描こうとする姿勢にあるといえよう。ただし、ある作品が時代小説か歴史小説かを判別するのは時に難しく、時代小説家が歴史小説の要素を強くもった作品を発表することもある。


戦後は、吉川英治私本太平記』、海音寺潮五郎天と地と』などが評判を呼び、山岡荘八徳川家康』は「家康ブーム」を呼んだ。司馬遼太郎も『坂の上の雲』『竜馬がゆく』などで息の長い活躍を見せた。いずれも、NHK大河ドラマ原作をきっかけに人気の相乗効果を得た作家・作品である。


大佛次郎も『鞍馬天狗』は別として『パリ燃ゆ』『天皇の世紀』などは歴史小説の範疇に入るだろう。松本清張の『昭和史発掘』『日本の黒い霧』や古代史もの、堀田善衛の『ゴヤ』などスペインもの、水上勉の『一休』『良寛』など歴史ものも定評がある。


また、戦記ものの吉田満、中国史に題材をとった陳舜臣、『安土往還記』や『背教者ユリアヌス』の辻邦生、『會津士魂』の早乙女貢や同じく会津びいきの綱淵謙錠、「記録小説」を開拓した吉村昭、経済・伝記小説の城山三郎などが人気を得た。


女流の永井路子杉本苑子安西篤子らも活躍。女流作家では、有吉佐和子『紀ノ川』『華岡青洲の妻』『和宮様御留』や宮尾登美子天璋院篤姫』も好評を博した。


ほか、現役の歴史小説家としては、阿川弘之塩野七生中村彰彦宮城谷昌光佐藤賢一らがいる。上にも述べたように、時代小説家か歴史小説家かの区別・区分は、人によって違うので注意。

「時代小説」と「歴史小説」の「歴史」。その1.

過去の時代・人物・出来事などを題材として書かれる点で「時代小説」と「歴史小説」は、似ている。境界もほとんど重なっていると言っていい。


だが、主に江戸時代を舞台として過去の時代背景や歴史的素材をつかって物語を展開する「時代小説」とは違って、「歴史小説」は歴史上に実在した人物や事件をあつかい、史実の核心にせまる小説と言える。


大衆に人気のある時代小説(大衆小説とほぼ同義)の出発点とされるのは、1913年(大正2)連載開始の中里介山大菩薩峠』。昭和初期には、大衆小説といえば時代小説、という図式が定着した。


1926年(大正15)の「大衆文芸」創刊には直木三十五長谷川伸らが参加し、「キング」「オール読物」といった雑誌が相次いで創刊された。1914年(大正3)デビューの吉川英治は『鳴門秘剣』『宮本武蔵』などを書き、大佛次郎鞍馬天狗』は嵐寛寿郎(アラカン)主演で映画化もされ、いずれも高い人気を博した。


「捕物帳」のジャンルでは岡本綺堂『半七捕物帳』、陣出達朗『伝七捕物帳』、野村胡堂銭形平次捕物控』などの人気が高かったが、その反面、戦時中は「股旅」ものや探偵小説の発表が禁止された。ほか子母沢寛中山義秀長谷川伸山本周五郎なども読まれた。


戦後のGHQ統治下、軍国・封建主義を想起させる小説表現は制限されたが、1949年(昭和24)の村上元三佐々木小次郎』を期に時代小説が復権し、昭和30年代に五味康祐柳生武芸帳』、柴田錬三郎眠狂四郎無頼控』などの「剣豪小説」ブームが訪れた。


鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』の池波正太郎や、『蝉しぐれ』『たそがれ清兵衛』などの藤沢周平が活躍。スターシステムを確立した東映などの時代劇映画からテレビへと移行した「時代劇」人気とともに読み継がれている。笹沢志保『木枯し紋次郎』もその一例。


このほか、山田風太郎忍法帖」ブーム、南條範夫「残酷」ブームなども訪れ、前者の伝奇作家の系譜からは隆慶一郎らが出た。新田次郎武田信玄』、舟橋聖一『新・忠臣蔵』、井上靖風林火山』、池宮彰一郎なども人気を得た。


現役のおもな書き手としては、平岩弓枝宮尾登美子佐江衆一佐伯泰英堺屋太一津本陽童門冬二山本一力宮部みゆき藤本ひとみ酒見賢一などがいる。近年、黒岩重吾高橋克彦北方謙三浅田次郎立松和平なども定期的に新作を発表している。歴史小説については別項を立てる。