鎌倉幕府は、いつから始まったのか。

教科書で覚えた「イイクニ(1192年)つくろう鎌倉幕府」の語呂合わせがもう通用しない、というエピソードが、次第に巷間に流布している。では、鎌倉幕府はいつ始まったのか。


そもそも、武家政権はいくつかの段階を経て成立した、という見方が一般的になっている。1192年(建久3)に源頼朝征夷大将軍(将軍)に任官される以前、平清盛を中心とした「平氏政権」(六波羅政権とも)が存在していたわけだが、これは「貴族政権」ではなく、地頭や守護を設置した「武家政権」だった、というのだ。そのため、鎌倉幕府を「日本で初の武家政権」と評する表現も、「平氏政権に次ぐ本格的武家政権」と改められつつある。


ちなみに、平氏政権のスタートは、平重盛へ東山・東海・山陽・南海諸道の治安警察権を委ねる「仁安2年(1167)5月宣旨」、または、平清盛後白河院政を停止したクーデター、「治承3年(1179)の政変」にあるとされる。


そうした流れを引き継いだ鎌倉幕府の成立も、いくつかの段階を経て達成されたといえる。順に見てみよう。


(1)1180年(治承4)
まず、後白河上皇の皇子・以仁王が挙兵。敗死するが「平氏追討の令旨」が各地に伝わる。伊豆に流罪となっていた源頼朝も挙兵し、石橋山の戦いに敗れたが、安房で再挙。頼朝を支持する関東の武士勢力が結集した。といっても、この段階では、まだ過去にも見られた「地方の反政府勢力」にすぎないだろう。ただし、この年のうちに「富士川の戦い」に勝って、坂東平氏など関東一円の主な武士団の支持を得たのは確か。鎌倉に頼朝の根拠が置かれ、幕府の統治機構の核となる「侍所」が設置され、和田義盛が侍所別当となった。

(2)1183年(寿永2)
いわゆる「寿永二年十月宣旨」によって、東国の荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させるとともに、頼朝の東国支配権を公認というか黙認。頼朝の東国支配権が確立した。ただし、この段階では「東国」(どの地域を指すのか諸説あるが)の地域政権にとどまる。

(3)1184年(寿永3)
頼朝が「公文所」(後の政所)と「問注所」を設置。支配地域(東国)における行政・裁判機構が成立した。「侍所」設置の流れだが、統治機構が整ったからといって、それは「政権獲得」を必ずしも意味しない。統治機構は政権成立の必要条件ではあるが、十分条件ではないだろう。

(4)1185年(文治元)
平家が壇ノ浦で滅亡。敵対する最大の武家勢力がなくなった、という意味で、この出来事はやはり大きい。また、朝廷から頼朝に、守護・地頭設置を認められる「文治の勅許」が下り、(主に東国の)軍事・警察・土地支配権が確立した。この年が画期といえるかもしれない。

(5)1189年(文治5)
頼朝が、源義経とこれを匿った奥州藤原氏を滅ぼす。全国の武士を「鎌倉殿」の名のもとに動員し、対抗可能性のある武家勢力を排除。

(6)1190年(建久元)
頼朝が、権大納言兼右近衛大将(律令制の武官最高位)に叙任され、治安維持に関する17ヶ条(後の大犯三ヶ条)を授かる。公卿となり、荘園領主の家政機関たる「政所」開設の権をも得たことで、朝廷側から見ても、その存在が公のものと認知されたことになる。

(7)1192年(建久3)
頼朝が征夷大将軍に任じられ、「兵馬の権」つまり全国の武士の軍事指揮権を朝廷に公認される。(4)(5)(6)の「武家の棟梁」へと近づく流れがさらに強化された。

(8)1221年(承久3)
北条氏を中心とする軍勢が「承久の乱」で後鳥羽上皇方を破る。西国も含めた鎌倉方による全国掌握が完了。京都に六波羅探題を置き、朝廷も掌握。


これだけのさまざまなターニングポイントを経るごとに、武家政権の骨格が強化され、既成事実が積みあがっていった。


とくに(1)(2)(3)にかけて、鎌倉方の政治的影響力は、将軍任国の関東(関東知行国)と将軍所領(関東御領)のみで「東国」中心だったが、1221年(承久3)の「承久の乱」後になって、ようやく全国的な支配権を確立した。


なお、武家政権を「幕府」と呼ぶのは江戸時代になってからのこと。鎌倉幕府の評価と性格付けもさることながら、「幕府」そのものの定義づけにも、いまだ共通理解は得られていないという。幕府成立の条件とは何か、という根本命題にコンセンサスが得られなければ、鎌倉幕府がいつ始まったかという問いにも本当の意味での答えは出ない。


中世の日本国家観として、一般には、鎌倉幕府を中心とする在地領主層を基盤とする封建国家が存在したという見方が定着しているが、国家の中心はあくまで朝廷で、公家・寺家・武家の「権門勢家」がそれぞれ荘園を経済的基盤として相互補完しながら国家を形成していたとする黒田俊雄らの「権門体制論」は今なお有力。


その一方で、西国の朝廷に対して東国に事実上の地方政権・独立国家を樹立したとする佐藤進一・石井進らの東国国家論もある。北条時頼親王将軍を迎えて以降の、上方と東国の不干渉が指摘されつつも、五味文彦によって東西間の連関を重く見る「二つの王権論」も提起され、「中世日本に単一の国家機構を想定できるのか」という問題系はなお未解決。

佐藤進一『日本の中世国家』』岩波現代文庫
石井進石井進著作集第1巻 日本中世国家史の研究』岩波書店
五味文彦編『京・鎌倉の王権』吉川弘文館
本郷和人『新・中世王権論―武門の覇者の系譜』新人物往来社

明治政府の修史事業(国史編纂)の挫折。

1869年(明治2)、明治新政府は「修史の詔」を発して平安時代の『六国史』を継ぐ正史編纂事業を開始した。修史局が『明治史要』第1冊を編んだのち、『大日本史』を準勅撰史書としながら、太政官修史館で「漢文での正史編纂」を目指したが、川田剛・依田学海と重野安繹・久米邦武・星野恒らの対立が生まれ、後者が事業を主導した。


その後も、国学系・水戸学系歴史観との対立が続いたが、(東京)帝国大学所管のもと『復古記』(王政復古関係史料集)が完成。しかし、神道側の反発を呼んだ久米邦武の論文「神道ハ祭天ノ古俗」筆禍事件(1892年[明治25年])を機に、『大日本編年史』編纂事業の中止と帝大史誌編纂掛の廃止が決まった。


これ以後、国家機関による史書編纂は正史ではなく史料編纂の形で行うこととなり、帝大史料編纂掛(のち東大史料編纂所)による『大日本史料』の刊行が始まった。


大日本史料』は、塙保己一の和学講談所の「史料」をもとに、現在までに約380冊が刊行、近年でも年に3冊ペースで刊行が続けられている。史料データベースの拡充も進んでいる。

東京大学史料編纂所
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html
大日本史料』の手引き
http://www.toride.com/~sansui/materials/hint/hint01.html

田中彰宮地正人編『日本近代思想大系(13)歴史認識岩波書店

「源平合戦」ではなく「治承・寿永の乱」。

1180〜85年の6年にわたる内乱は、一般に「源平合戦」「源平の戦い」などとして有名だが、「治承・寿永の乱」という元号で区切るニュートラルな呼称がふさわしい、というのが最近の流れ。


理由としては、まず、平氏政権から鎌倉幕府の樹立にいたる過程をみれば、清盛も頼朝も「院政の克服」を政治的課題としていたと評価すべきとされる。


また、平氏を打ち破った勢力としては、以仁王の宣旨に呼応した源頼朝木曾義仲の印象が強いが、平氏がすべて一致団結した勢力で、それに対抗する勢力がすべて源氏だったわけではない。頼朝を支持した関東武士の多くは平氏系で、実際には九州、熊野、近江など各地で平家支配への抵抗が強まっていた。単純な「源氏対平家」ではなかったとの分析が有力になりつつある。


富士川の戦い(1180年)に勝利した頼朝がすぐに上洛せず、関東政権の充実に力を注いだのも、武士による領地所有の安定化と権利確立を求める関東武士団の求めが強かったため。


ちなみに関東以外では、土佐、河内、美濃、近江、熊野、伊予、肥後、若狭、越前、加賀などで挙兵が相次ぎ、南都勢力の抵抗に手を焼いた平重衡は、東大寺興福寺を襲った(南都焼討)。


義仲にかわって頼朝上洛を願う後白河法皇に「寿永二年十月宣旨」(寿永2年[1183])を出させることに成功した頼朝は、東海道東山道の荘園・国衙領を元の通り領家に従わせる権限(沙汰権)を得て、東国支配を公に認められた。この宣旨を「幕府成立」と見るか、「朝廷による東国政権併合」と見るかで議論は分かれている。


なお、大江広元による頼朝への「守護・地頭」設置の献策(文治元年[1185])は、石母田正の論文「鎌倉幕府一国地頭職の成立」以来、概念の再検討が進み、現在では、守護制の前段階としての「国地頭制」「総追捕使」という理解が広まっている。とすれば、建久元年[1190]に頼朝が初めて上京して獲得した「諸国守護」を奉行する権限が「守護」職の始まりとなる。

上杉和彦『源平の争乱』(『戦争の日本史6』)吉川弘文館
川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』講談社選書メチエ
上横手雅敬『源平争乱と平家物語角川選書
保立道久『義経の登場 王権論の視座から』NHKブックス

武家社会成立の基本文献『吾妻鏡』研究史

吾妻鏡』は鎌倉幕府の6代の将軍記で、初代将軍・頼朝から6代・宗尊親王まで、具体的には1180〜1266年、87年間の事績を編年体で記している。


治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)から、平氏滅亡、鎌倉幕府成立、承久の乱北条泰時の執権政治、得宗専制にいたるまで、武家政権成立期の主な出来事をその範囲としている。鎌倉時代後期の幕府中枢がかかわって成立したためか、北條得宗家に対する評価が極端に甘いとされる。


江戸時代、武家有職故実をさかのぼるため、林羅山らによる校訂・注解・写本研究が進んだが、明治期には星野恒による再評価が高まった。これは近代歴史学の勃興期ゆえ、国学系・水戸学系の歴史観に対抗して『平家物語』『太平記』を否定し、『吾妻鏡』を『玉葉』や『明月記』など同時代の日記と同レベルで評価する流れに乗っていた。


大正時代、八代国治『吾妻鏡の研究』が、写本整理や古記録をもとに、『吾妻鏡』が後世の編纂であることを立証し、史料批判のための綿密な作業が現代まで続いている。とくに、2代将軍・頼家を貶める記述や、北条時政・泰時・時頼ら歴代執権の顕揚、後世のを無批判に取り込んでいる点などが多数指摘されている。


五味文彦『増補 吾妻鏡の方法』吉川弘文館によれば、吾妻鏡の原資料は「幕府事務官僚の日記・筆録 」「(家伝・寺伝、訴訟書類など)後に提出された文書」「幕府中枢に残る公文書類」「京系の記録」に大別されるという。

吾妻鏡事典』東京堂出版
吾妻鏡必携』吉川弘文館
五味文彦本郷和人編『現代語訳吾妻鏡』全16巻予定、吉川弘文館

『神皇正統記』から「皇国史観」へ。

南北朝時代、幼い後村上天皇に対して吉野朝廷(南朝)の正当性を教え伝えるために、北畠親房が著した歴史書後醍醐天皇崩御直後の1339年(延元4・暦応2)の秋ごろ、常陸国小田城(つくば市)で執筆したとされる。


北畠親房は、後醍醐天皇の側近として建武の新政に参画。伊勢で南朝勢力の拡大を図る過程で、度会家行の伊勢神道と「神国思想」の影響を受けた。その後、常陸南朝勢力の拡大に努めたが、吉野に戻り賀名生で没。指導的人物を失った南朝方は以後、衰退・和睦への道をたどった。


天皇と公家(摂関家村上源氏)が日本を統治して、武士を統率していくのが理想の国家像とされ、『大日本史』・水戸学は『神皇正統記』を高く評価し、後の皇国史観にも影響を与えた。北朝に対抗する親房は、皇位継承の条件として、三種の神器の有無、血統、徳治を主張し、承久の乱を引き起こした後鳥羽上皇が批判される一方、北条義時・泰時は、かえってその後の善政が評価された。


皇国史観とは、万世一系天皇家が日本に君臨し、そうした天皇に忠義を尽くすことが臣民たる日本人の至上価値だとする歴史観。『神皇正統記』がその先駆例とされ、江戸時代の水戸学や国学、幕末の尊王攘夷運動によって思想的・政治的影響力が強まり、明治維新後、正統な歴史観とされるようになった。


明治政府の政策や明治期の言論界・学界は、学問の自由と皇国史観のあいだで揺れ動いたが、戦後歴史学では古代史や考古学の研究が進展。他方、近年になって「新しい歴史教科書をつくる会」(つくる会)などの「歴史修正主義」が一時活発になった。

白山芳太郎『北畠親房の研究』ぺりかん社
伊藤喜良『東国の南北朝動乱 北畠親房と国人』吉川弘文館(歴史文
化ライブラリー)
永原慶二『皇国史観岩波ブックレット
昆野伸幸『近代日本の国体論―“皇国史観”再考』ぺりかん社
長谷川亮一『「皇国史観」という問題―十五年戦争期における文部
省の修史事業と思想統制政策』白澤社

「賄賂政治」の田沼意次は、有能な改革・開明派。

8代吉宗の代に取り立てられた小身旗本出身の田沼意次は、9代将軍・家重の小姓・側近となり、その子・10代家治の信任のもと、側用人に出世。1772年(安永元)、ついに600石の旗本から5万7,000石の大名・老中にまで昇進した。


「田沼時代」と称されるのは、意次が側用人に出世して以降、1767〜1786年の約20年間のこと。この時期の幕閣では、悪化する幕府の財政赤字を食い止めようとして、重商主義政策がとられた。


江戸時代の三大改革(享保の改革寛政の改革天保の改革)は、いずれも復古的理想主義、米の流通を中心とした重農主義を特徴とする。これに対して、意次らは、同業者組合である「株仲間」を奨励。商人に専売制などの特権を与えて保護し、運上金や冥加金を徴収した。


また、五匁銀・南鐐二朱銀といった新貨の鋳造などによって通貨制度を改革し、高利貸しなどの金融資本の発達を促した。町人資本による印旛沼手賀沼開拓などの農地開発も行い、蝦夷地開発も企図していたとされる。


さらに、蘭学や長崎貿易を奨励して、幅広く人材を登用したため、大槻玄沢蘭学塾を開き、1774年には杉田玄白前野良沢らが『解体新書』を刊行。活発な経済政策による幕府の財政改善は、歴史家のあいだでも高く評価されている。


ただし、「光と影」の「影」の面として、天明の大飢饉の対応失敗で米価急騰・農村の荒廃を招き、商品経済の発展に伴う賄賂政治の横行が見られたことも確か。


11代家斉の代となって松平定信が老中首座になると、意次は失脚。「寛政の改革」は綱紀粛正、重農主義など、田沼時代と正反対の政策をとった。賄賂=田沼意次というイメージは、こうした後世のネガティブキャンペーンによるところが大きい。

藤田覚田沼意次―御不審を蒙ること、身に覚えなし』ミネルヴァ
日本評伝選
江上照彦『悪名の論理―田沼意次の生涯』中公新書
大石慎三郎田沼意次の時代』岩波現代文庫
辻善之助『田沼時代』岩波文庫
徳富蘇峰平泉澄『近世日本国民史 田沼時代』講談社学術文庫

日本史の「歴史叙述・歴史意識」の歴史。

日本最初の正史とされる『日本書紀』や『古事記』以前にも、『帝紀』『天皇記』などの歴史叙述の存在が確認されている。その後、いわゆる「六国史」、つまり『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』の整備が進み、天皇の正統性と日本の独自性を根拠づける歴史認識が広まった。


その後、平安後期以降になると、歴史物語の『栄花物語』『大鏡』『増鏡』、軍記物語の『平家物語』『太平記』『梅松論』、説話集の『今昔物語集』『日本霊異記』などが成立・流布し、武士や一般庶民にも「歴史」認識が受容された。また、中世には、慈円愚管抄』と北畠親房神皇正統記』が歴史意識の点で鮮やかな対比を見せ、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』も編まれた。


江戸時代には、将軍家・大名家の由来と支配を正当化する動機づけのもと、儒教思想を取り入れた『本朝通鑑』『大日本史』などが成立。また、歴史研究にも大幅な進展が見られ、新井白石『読史余論』『古史通』などを経て、荻生徂徠や伊藤東涯による実証的な歴史研究が盛んになった。『群書類従』『続・群書類従』の編纂や、富永仲基の合理的歴史観も特筆に価する。


欧米の近代歴史学を受容した明治期には、田口卯吉『日本開化小史』や福澤諭吉文明論之概略』が読まれる一方、明治政府は、天皇を中心とする国民国家建設のため、国家主義的な歴史叙述・歴史教育を重視した。


明治・大正から戦前にかけての「官学アカデミズム」は、ランケ(独)の実証主義を継承し、マルクス主義による唯物史観などの潮流も紹介されたが、しだいに国家主義歴史学の衝突が起こり、「皇国史観」とその否定が戦後歴史学の課題となった。

【今後の参考文献】
講談社『日本の歴史』全26巻(講談社学術文庫に落ちつつある)
岩波書店『岩波講座 日本通史』全21巻・別巻4巻
小学館『全集日本の歴史』全16巻(2007年〜刊行中)
吉川弘文館『日本の時代史』全30巻
山川出版社『日本歴史大系[普及版]』全18巻
東京大学出版会『日本史講座』全10巻